もう一度会いたい人。
誰しも必ずや一人は浮かぶのではないだろうか。もうこの世にいない人、好きだの嫌いだのなんだのかんだのエトセトラな人。卵から孵って一心不乱に海を目指したり、とにかく立ち上がろうとしていた人にはいなそうだが、きっと大体の人がぼわんと頭の片隅に出てきそうなものである。
私にも長年思い浮かべ続けている人がいる。
小学校3年生の時の転入先にいた難波先生だ。
その難波先生の説明をしたい。年の頃は大体30代前半か。体は大きく、身長は170cm後半位でかなりがっしりしていた。癖毛で少し茶色がかった髪色、長めの前髪から覗く目がギョロリといつも私達を見下ろしていた。その目の色も少し明るかったから髪も染めていた訳ではなさそうだ。(ここら辺は私の記憶の補正がかかっているかもしれない)服装は当時他の先生達は上下ジャージが多かったが、その中で難波先生はいつもジャイアンが着てるようなラガーシャツに太めの黒いズボンだった。着古して色褪せていたがそれもなんだか本人に似合っていて格好良く見えた。イメージはハリーポッターに出てくる森の番人のハグリットに近い。
同学年の他クラスの担任だった難波先生は結局、卒業するまで一度も担任になった事はなかったから、そこまで濃密な時間を過ごした訳ではなかった。
それなのに何故、20年程経つ現在まで私の心にこんなにも強く残っているのか。驚くなかれ。
難波先生は、槍を振り回していたのだ。
『やり』である。
念の為にご説明をお届けするが、私の新明解国語辞典第七版にはこう記してある。 やり【槍】長い柄の先に細長い刃をつけた、突き刺す武器。
まさにそれなのである。
2m程の木製の柄の先に10cm位の刃がついており、その根本に短い赤い紐みたいのと小さな鈴が括りつけてあったように思う。その槍は大体彼の手に握られているか、彼のクラスに遊びに行くと壁に立てかけてあった。不思議とそれで勝手に遊ぶ子供はいなかった。
先述した難波先生と、この槍の組み合わせを想像して欲しい。そんな人が岡山の何もない、新興住宅地にある小学校で教員をしていたのだ。
勿論、子供達はそんな大人にとても興味を持つ。廊下を歩く難波先生にはいつも学年関係なく子供達がじゃれついていた。私もその一人で友達と難波せんせーいと言って近づいてはその振り回した槍の先を顔面寸前で止めてもらう、という前衛的な遊びにきゃっきゃとはしゃいでいた。
いつだったか家で母親が「難波先生のクラス、授業でみんなにドングリ食べさせたって」と多分母親同士のお喋りで聞いてきたのだろう、うちの子の担任じゃなくて良かった〜という顔で話していた。そんなの、私は羨ましかった。ドングリ、どんな味するんだろう、と。いいなぁ、難波先生のクラス。
それでも少し接点はあった。私は放送クラブに入っており、その顧問が難波先生だった。給食の時間や掃除の時間に生放送でラジオのように音楽をかけたり学校生活における連絡や注意事項を放送したりしていた。転入生がいればその子達を放送室に呼んで、今度はテレビで一人一人紹介するのだ。各教室では給食を食べながらそれをテレビで観る。その小学校はまだ新しく、隣同士の教室が仕切りのみだったり、かなり自由な校風だった。今思うとかなり面白い。
その放送クラブだけが、難波先生から教えて貰える時間だった。普段知らない真面目な難波先生に少しドキドキした。
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たばこを吸いながら あの部屋にいつも一人
ぼくと同じなんだ 職員室がきらいなのさ
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん
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RCサクセションの「僕の好きな先生」の歌詞です。
清志郎の歌うこの先生とは趣が違うが、私の気分は同じ。そういえば、学校で寝泊りしているという噂もあった。この歌詞みたいに難波先生にもそんな部屋があったんだと思う。
私は結局この小学校を6年生の1学期でまた転校してしまう。だからこの後の難波先生を知らない。一時期、会いたい思いが募り探偵ナイトスクープに葉書をしたためようかしら、と思った程である。まだ先生をしているのだろうか。何故先生に?家族は?何故槍?大人になってから聞きたい事がたくさんあるのです。
これが、私のもう一度会いたい人の難波先生。だって、例えば昔のエトセトラな人に会うことは大体、意味がついてくるものでしょう?今の自分の見た目をいかにさりげなく良く見せようとする。絶対ARIZONAとか書いてあるトレーナーなんて着ていたくはない。私はマンションの下にゴミを捨てに行く時の格好でも難波先生に会えるなら全く構わない。その格好で1時間でも2時間でも話せる喜びを伝えたいだけだ。そんな七面倒くさい感情は要らぬ。只々、もう一度会いたいのである。
共に過ごした時間や、関係性の深さに比例しない思いがある。片方が忘れている事をもう片方は死ぬまで覚えている。
本当はもう一人、何かにつけ思い出される人がいて、それはいつか絶対書きたい。その人は私をどう思っているだろうか。