今しがた夕陽が沈みました。幕引きの最後の最後までオレンジが手を振っています。今日の出来は良かったようです。
雲が所々に浮かび、月は半分より大きくて、風は少し強め。
絶好の日が来たのです。ついに。
二階のベランダにいたヤドカリは深呼吸をして、できるだけいつも通りに下に向かって大きな声で言いました。
「夜ご飯は隣町のレストランに行こうー!」
「オッケ〜」
タタタタと階段を降りてヘルメットを二つ取り、大きい方をヤシガニに渡しました。
黒くて大きな2人乗りのバイクはヤシガニが運転します。その背中につかまるといつも通り出発です。
クネクネと少し走らせるとすぐに海側の道路に出ます。今日も渋滞しているけれど、ヤシガニは慣れた手付きでスルスルと車の間を通り抜けて行きます。時折道路の壁に当たった波が泡になって空に触れ、真珠色の光に変わっては消えてゆきます。
ヤドカリの心臓は飛び出そうなほどバクバク鳴っていたので、ヤシガニの背中に体をくっつけないように注意していました。そのせいでいつものようにヤシガニのお腹の甲羅をさわさわと指の腹でなぞる事ができません。(バイクに乗る時のヤドカリの癖なのです)
あぁ、そんな事より今日の海は、風は、月は、最高です。
夜の海は黒い布をすっぽりかぶってゆらゆら揺れて空と繋がり、ほんの少し先も見えません。その暗闇がヤドカリは好きでした。とても恐くてドキドキして、苦しくなってくる程焦がれていたのです。
バイクは渋滞を抜けてきました。
風はビュービューとあちこちから好きなように体に当たってきては凄い速さでまた飛んでゆきます。その中の一つの風が耳の穴に入ってくるとぐるんぐるん回りながら言いました。
「今日は間違いないよ、大正解だ」
ヤドカリは急にわんわんと泣きたくなりました。こぼれないように涙がたまった目を大く開いて海と空と月を睨むように見ました。そしていくつかの風を思い切り吸い込みました。
バイクは完全に渋滞を抜け、ヤシガニはぐんとスピードを上げます。
あと10メートルで道路は緩やかに右にカーブします。その先が隣町です。
9、8、7、6、5
もうすぐ。ヤシガニの背中を見ました。
4、3、2
横を飛ぶいちだんと大きな、睫毛長い青と紫が混じり合った風と目が合いました。
1
ヤドカリは空に向かって大きく大きく飛び上がりました。
息を吐いて風を繋ぎ、どんどん上に上に向かって飛びます。
風たちに追いついたり追い越されたり、うんと力いっぱい飛び続けます。
いつもいつも見ていた空に、飛び込めたのです!
暫くすると、周りの風たちが休んだり眠ったりし始めました。
ふとヤシガニを思い出して下を見ると、そのまま、まるで最初から1人でツーリングでもしていたみたいにそのまま、隣町へ消えていく姿が見えました。
その時、いっそう強い風が吹いてヤドカリの体が月に近づきました。
足の裏に洗濯したばかりのバスマットを踏んだ瞬間の心地よさが広がります。
真下にさっきの睫毛の風がまた現れて、あまりに大きいので押し上げられたのでした。それから、よく見ると様子が違っています。
青と紫のマーブル模様のジェラートみたいな体に長い睫毛の、鯨になっていました。
ゆっくり点滅する光が体の所々にくっついて周りをぼんやり照らし、まるで海を泳ぐように飛んでいます。夢のように綺麗です。
ヤドカリはやっとその時気がつきました。さっきから風が体をすり抜けていくというか、体が空と風に溶けてしまった感覚。空に長居しすぎて風になってしまったのかとも思いましたが、そうではありませんでした。
背負っていた貝がいつの間にか脱げていたのです。
一回転してみました。早く飛んだり遅く飛んだり、急に曲がってみたりしました。なんて軽いんでしょう。
ヤドカリは、もうヤドカリではなくりました。どんなものにだってなれるし、好きな名前も付けられます。
楽しそうで怖そうで、何かに似ているな。そうだ、夜の海だ。
すでに眼下には見た事のない大きな大きな海しかありません。相変わらず黒い布を広げて月明かりを受け、模様を作っていました。
いつかあそこに行かなくちゃ、と名前のなくなった生き物は思いました。
ずっと飛びたいと思っていたら、飛べたんだから。その時には名前くらい決めておきたいな。
睫毛の鯨とまた目が合いました。とても大きいから片目しか見えないけれど、確かにこちらを見ると海面に息を吸いに行くように更に上空へ飛んでゆきました。お腹の色は薄桃色でした。
鯨を見送ると名前がなくなった生き物は眠くなってきました。寝床を探さねばなりません。風になったわけではないから空で眠る事はできないのです。
だって、飛んでいるのではなく、長い長いジャンプをしているだけなのですから。
ちょうど少し先に、光が点いたり消えたりしている灯台が見えます。鯨みたいで安心して眠れそうです。
少しずつ下降していきます。
これから何者になれるのだろう。
今日はひとまずおやすみなさい。