2020/9/27

風呂から上がって携帯を見ると、妊娠8ヶ月の友人からLINEが数件来ていた。

開くと動画が3本あった。丸く膨らんだお腹に大きなヘナタトゥーを描き、間接照明を当てた白いカーテンの前でアラビア風の音楽をバックに、ふざけるでもなく、真剣にベリーダンスを踊っていた。キリムのそれっぽいラグの上で。

そのうちの一本は横に旦那もおり、小さな太鼓を持ってドンタコスのような格好で一緒に踊っていた。その様子から旦那はふざけているのは見てとれるが、そんな彼を横に彼女は表情を変えずより激しく踊っていた。

私は盛大に笑った。クローゼットで寝ていた犬も何事かと起き出してくる程にワハハハと笑っていた。

どういう状況よ。と普通は思うだろうが10年以上も付き合っていれば一つも奇妙ではない。あの彼女がこうしたかった、それを私に見せたかった、という状況でありそれ以上でも以下でもない。

ほんとあんたって人は最高だよ、と返信した。

その時少し腑に落ちた。

何時間か前に犬の散歩中、なぜ絶対に死ぬのに生を全うすべく生きるのか、と今日も己の脳みそに問うていた。並んで生えている木にも答えを求めた。

ここまでを一週間前に書いていた。

何が腑に落ちたかというと、風呂上がりに友人が大笑いさせてくれるような、なんでもない日に贈りものを貰うような、そんな嬉しくて楽しい瞬間を味わう事が生きる理由の一つなのかも、と考えた。

私はそれを正解だと思うから信じる事にした。

信じているから日々を過ごせる。モヤモヤと消えないものに捕らわれる自分をなだめたりケツを叩いたりして付き合っている。

それなのに、それなのに?だからこそ?そんな時に?

悲しく辛い情報が入ってくる。そしてそれらは毎日どこかで起こっており、そのほとんど全てと言っていい程の出来事が自分に入ってきていない、という事に気が付く。

引き戻されるような、信じている事を疑い、それならいっそ壊してしまった方がいいのではないかと踏み外して落ちていきそうになる。

それでもベッドから起き上がって植物をベランダに出し水をやらなければいけない。

生活を共にしている犬の散歩に行かなければいけない。

今日は夕方雨が降るかもしれないから早めに洗濯機を回さなければいけない。

コンタクトを入れないと何も見えない。

犬の換毛期で毛がたくさん落ちているから掃除機をかけなければいけない。

年頃の体の為にトレーニングもしなければいけない。

クロワッサンにハムを挟み、美味しい珈琲で朝ごはんを食べなければいけない。

あ、残りのカレーは今晩片付けよう。

掃除機をかけたそばから犬が後ろ足で掻き掻き、毛が舞っている。

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そんなこんなをパタパタとやっているうちにこうなる。

悪いけど私は生きてやるよ、と来たもんだ。

犬の面倒も見るし美味しいものも食べ続けたい。

好きな人達が存在している限りその為に生活を続ける。とりあえず、今日のうちは信じ続ける。

そうか、身近な人の為にも生きるのか。

そういえば信念なんて持たずに今までやってきたし考えもしなかった。

33歳になってやっと手に入れられたのか。私はいつも遅い。

明日からはほんのり勇ましくなった自分と付き合い続ける。